進路選択での苦い体験と、成長と
なおさんがスマイルバトンを立ち上げるまでのお話を、あらためて聞かせてもらえますか。
実は私、大学選びに少し苦い思い出があるんです。学生時代まで遡るんですけど、小学校から高校までバスケットボール漬けの日々を過ごしてきて、いざ進路選択の場になったとき、やりたいことが出てこなかった。
食べることが好きだからなんとなく食の仕事かなと考えて、教師をしている両親から教員免許を取ることをすすめられたこともあって、栄養士の資格も教員免許も取得できる選択肢の中から大学を選びました。でも入学してすぐに、これは私が学びたいこととは違うと思ったんです。母親に大学を辞めたいと話すと、「一つのことをやり遂げられない人間は何をやっても駄目だと思う」と言われ、その通りだと思いました。
大学を続けながらできることを探して、その頃はファッションへの興味が強くなっていたので、ファッションビジネスを学びに夜間の専門学校に通い始めました。
教職課程も取っていたので、大学の授業は夜までフルに詰まっていて、その上で専門学校の授業や課題があったので大変だったけど、専門学校での学びはすごく楽しかったですね。同級生には昼間は働きながら自分でお金を出して通う人もいて、目をキラキラさせて学んでいた。大学の同級生たちとはまた違う、エネルギーや学ぶ姿勢を見ながら、専門学校っておもしろい場所だなと思いました。
その後、今も大好きな天海祐希さんを通して演劇の世界にも惹かれ、とある大学の劇団に所属して、舞台衣装を作ったり制作(広報)をやったり、最終的には舞台に立ったりもしました。
興味の伸びる方へ活動を広げた学生生活だったんですね。
両親にはすくすくと育ててもらったことを本当に感謝しています。ただ今振り返ると、高校生までは親が敷いてくれたレールにしっかり乗っていたし、そのレールの上で提示される選択肢は決して多くなかったと思うんです。
大学時代は、夜間の専門学校で出会う人たちから受ける刺激や、演劇の活動を通して、自分の「やりたい」がどんどん生まれてきました。人生のゴールデン期間を聞かれたら「19〜21歳のころ」と言えるくらい、はじめて自分の意思にそって生きている感覚があったし、毎年自分の成長を実感していました。
就職活動の時期になって、あらためて何がしたいかを考えたとき、学生時代に経験したことをフルに活かせる仕事がいいなと思いました。1社目に就職した三幸学園はいろんな領域の専門学校を運営していて、ここなら自分が学んできたことを全て活かすことができると思い、入社しました。
でも実は、就職活動中にはもう一つの思いがあったんです。
どんなことですか。
天海祐希さんが書かれた本を読んだことをきっかけに、大学時代から読書にはまっていって、たくさんの本と出合いました。本を通して自分の世界が広がっていく体験から、こんな風に新しい世界を見せてくれる本を作りたいという思いが湧いて、就職活動のときは先生の仕事か、本を作る仕事がしたいと思っていたんです。
大学の夏休み期間を利用して東京へ行き、出版社のアルバイトとしてファッション雑誌の制作に携わりました。このときの経験も、忘れられない思い出です。ただ同時に、出版業界に就職するには私には届かない、「学歴」とかそういった壁があることにも気がつきました。結果的に、就職活動では出版社から内定をもらうことはできませんでした。
そんな経験もあったんですね。
三幸学園は、自分の経験してきたことが全て活かせる場所だと思えたし、面接を通して知る働く人たちの雰囲気も自分に合っているように感じて入社しました。8年間本当にいい環境で働けて、人の成長に関われる先生の仕事を天職だと思って過ごしていました。
体育祭とか発表会など行事にすごく力を入れる学校で、私自身、学生のころ以上に全力で打ち込んで、青春を取り戻した感じがありました。というのも、大学のことは入学早々ここは合わないと自分の中でどこか線を引いた部分があって、その姿勢によって大事な「今」を自分で駄目にしていたんだと、最後の最後、大学卒業のときに気づいたんです。
社会人になってからは、どんな今も楽しもうという気持ちで、授業にも学校行事にも本気で向き合っていました。そういう本気は生徒にも伝わって、生徒との時間も充実していきました。
先生として生き生きと働くなおさんの姿が目に浮かびます。
保育士を養成する専門学校で先生をしていたときのことです。当時、保母さんから保育士という呼び名に変わり、保育士の仕事が男性にも選択肢として広がってきた頃だったので、クラスの1/4くらいが男子生徒でした。彼らとの関係性も深くなっていたので、進路相談でも正直な思いを話してくれました。「保育士になりたいと思って入学したけど、将来的にずっとやる仕事じゃないかもしれない」「子どもは好きだけど、よくよく職業を見つめてみたらやりたいことじゃなかった」、そんな壁にぶつかっている彼らの姿に、大学を選んだときの自分がふと重なって見えたんです。
「保育士じゃなくて一般企業に行きたいから、先生のおすすめの企業を教えてほしい」と言われたとき、何も答えられず頭が真っ白になりました。それまでは何でも知っていてどんなことも力になるよって顔をしていたけど、社会のことを何も知らないことに気づいてしまったんです。
それがあって、社会に出ると決めました。先生だった私が社会という場所でも生き生きと働くことができたら、それが誰かの希望にもなるかもしれないという思いで、ベンチャー企業2社を経て、リクルートライフスタイルという会社で広報と企画の仕事に従事しました。
社会に出てみて、私が先生として学校で教えてきたことはもちろん大事なことだけど、社会とは少しズレがあることも知りました。先生の持つコミュニケーションや伝える力は本当に役に立ちます。でも社会では自分で判断して動く、常に選択を迫られる状況がありました。特にリクルートでは「あなたはどうしたいの?」と、常に個人の意思を問われる環境で、仕事にも自分のやりたいことを重ねていいという体験ができたことはとても大きかったです。
リクルートには複業をしている人たちがたくさんいて、会社員をしながら飲食店経営していたり、コンサルタントをしていたり、鞄などのものづくりをしていたり、いろんな働き方をしている仲間からたくさんの刺激を受けました。私も自分の意思を形にしてみたいと思い、2016年9月から「先生の学校」を始め、こつこつと4年間ぐらい続けて、2020年に満を持してボーダレスの仕組みを使って起業しました。私の中ではじっくりと、階段を上るように挑戦を重ね、機が熟して起業したという感じです。